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2025/05/19

精美の食べ物ブログ!これまで日本人を最も飢えから救った食べ物!? そのスゴさを見直す さつまいもの胸焼けとぬくもり

精美スキンケアクリニック公式サイト

現代ビジネス 1/29(日) 6:01配信




冷や汗を流しながら…

 2015年の秋、わたしは二度、さつまいもに救われた。

 国際学会のスケジュールには、しばしば「エクスカーション」と呼ばれる視察旅行が組み込まれる。

 たとえば、シンガポールで開催されたアジア史関係の学会では、第二次世界大戦期の慰霊塔や日本軍の上陸した海岸までスコールのなか連れて行ってくれたり、台湾で開催された東アジア環境史学会では花蓮から奥地に入って先住民の方々から小動物の狩りの仕組みを学んだりできる。

 韓国全州での東アジア農業史学会では巨大なダムを視察したり、網走での同じ学会では網走の農家から直接お話を伺ったり、観光ブックガイドには載っていない場所に行けるだけでなく、現地の方とお話もできるので、いつも楽しみにしている。

 しかし、今回の香川での学会はなかなか楽しもうという気持ちになれない。空は晴れていても、気持ちが晴れない。

 東アジア環境史学会主催者の香川大学の村山聡さんから、外国から訪れた研究者と同行して、小豆島の案内を手伝うだけでなく、福田地区で昼食を食べるまえに日本の食の歴史に関する話をするように依頼があったからである。

 いつも元気な村山さんでさえ膨大な準備作業でその疲労はすでに限界を超えていたから、断る勇気を持てなかった。

 たが、実は小豆島の来訪は初めてであり、そもそも案内できる知識がない。オリーブオイルも、醤油も、ゴマ油も好きだけれど、語るほどの蘊蓄(うんちく)がない。

 結局、小豆島の食事情に詳しく英語が堪能な中村博子さんに小豆島の説明はお任せしたものの、お話ばかりは中村さんに押しつけるわけにはいかない。仕事に追われていて準備にも時間が割けない。

 たまたま発表したばかりの明治期東京のスラムの食生活に関するデータを抱えて、新幹線に飛び乗った。つまり、小豆島と関係のない話を、冷や汗を流しながらすることになったのである。

焼き芋が最後の砦だった

 都市下層社会を支えていた食べものとして、繁華街や士官学校の炊事場から出てくる残飯だけではなく、タイやビルマから輸入されていた「南京米」という呼称をもつインディカ米とさつまいもなどがあったことも話した。

 たとえば、中川清編『明治東京下層生活誌』(1994年)に収められている『時事新報』の、1896年10月から11月にかけて掲載された記事「東京の貧民」には、

 「(乞食小僧は)貰いものの少なきときはやむをえず稼ぎ高の中にて大福餅、焼き芋、蒲鉾などを買いこれにて空腹を凌ぎ」

 とあるし、同著に収められている呉文聡の「東京府下貧民の状況」(1891年)にも、

 「「上等」極下等米、挽き割り、南京米の粥、「中等」粉米(こごめ)、キラズ[おからのこと―引用者註]、蕎麦下粉(したこ)、なお三度食するはまれにて二食もしくは一食を以て一日を凌ぎまたは焼き芋あるいは安野菜を塩煮にして食物とす。「下等」最下等の者に至ては芥溜(ごみ)箱を探り腐敗物を拾い食す(本所荒井町には60日間焼き芋のみ食せし者あり)」

 という記述がみられる。「焼き芋」が、餓死に至る道のりの最後の砦のひとつであったことが、この記述から分かるであろう。

 それにしても、木賃宿とか、鍋底のおこげとか、南京米とか、簡単に英語に翻訳できない用語ばかりで困った。軽率さにかけては幼少の頃からかなりのレベルを保ってきたわたしも、さすがに今回は自分の軽率さを呪った。

さつまいもに救われた

 とにかく、わたしは、オリーブの緑がまぶしい瀬戸内の島で、小豆島の旬の食材を使った美味しい弁当がもうすぐ食べられる前に、残飯、南京米、さつまいもによって空腹を凌いだ貧民たちの話をしたのだった。

 小豆島のさまざまな場所を見学したあと空腹を抱えた研究者たちのまえで残飯の話をすることに、若干の躊躇がないわけではなかったが、食べものの世界の本当の奥深さを知ってほしいという思いをひそかに抱いていたこともたしかである。

 欧米から来た研究者たちの反応は驚くほどよく、話が終わったあと、冷や汗が引かぬまま食事を囲んだテーブル席で質問攻めにあった。

 ただ、もうひとつ気になっていたことがあった。

 小豆島の東海岸に位置する福田での食事会は、自治会長さんをはじめ、地元の方々との交流も目的としている。

 江戸時代の大阪城再築のときに、小豆島の良質な石が採掘して、切られ、船で運ばれたのだが、福田港はその港のひとつでもあった。

 また、そういった歴史や瀬戸内芸術祭を通じて文化を通じた町おこしに積極的な地域でもある。

 つまり、わたしは、福田のみなさんのまえでも小豆島と関係のない話をしていたことになる。不興だったかもしれないと不安になって、恐る恐る感想を聞きにいったら、みなさんはこんな話をしてくれたのだった――。

 小豆島では、さつまいもがよく食べられていた。自家用の田んぼもあるそうだが、それほど多いわけではない。秋にさつまいもを収穫すると芋釜にいれて一年間近く保存する。

 小豆島の特産品といえば、オリーブや素麺やゴマ油や醤油だけれど、さつまいもが小豆島食生活史のなかで重要な位置を占めることを、福田のみなさんは丁寧に話してくださった。

 もっとも驚いたのは、小豆島の名産の佃煮。小豆島は海産物に恵まれ、小魚の佃煮はみやげ物としても喜ばれるが、それは、最初は海産物ではなく、さつまいもの蔓の佃煮から始まったことである。

 瀬戸内海最大の島で、貴重な食材であったさつまいもとその蔓。そういえば、10年前に同僚たちと対馬にいったとき、この島でも水田が少なくさつまいもが「孝行芋」と呼ばれ、貴重な食料だったことを知ったのだが、そんな昔の旅を思い出した。

 さつまいものでんぷんから作られた黒っぽい麺「ろくべい」の歯ごたえと風味はいまも忘れられない。シンプルであるが、風土に深く根ざしたさつまいもの史実にわたしは心打たれた。福田のみなさんのお話とさつまいもに感謝しながら、バスに乗った。

から藷を抱く

 二度目のさつまいも救いは、それからあまり間をおかずにわたしに訪れる。

 熊本で、石牟礼道子さんと対談をするという僥倖に恵まれたときである。

 本の感想には、面白かった、心打たれた、一気に読めた、深く考えさせられた、など、いろいろな言葉があるが、「打ちのめされた」という言葉は、石牟礼さんのご著書にこそふさわしいと思う。

 『苦海浄土』(1968年)はもちろん、『椿の海の記』(1976年)や『あやとりの記』(1983年)なども、膝を地に落とし、頭をかかえるしかない強みと重みをもっている。

 そんな作家に向かって、どんな言葉を投げかければいいのか。対面したとき、自分のあまりにも小ささに冷たい電流が体を走ったように感じた。

 このときの対談は『婦人之友』の2016年2月号に掲載されているが、いまでもこの対談が成立していることが信じられない。

 ただ、もし成立しているとしたら、石牟礼道子さんの信じられないほど強い知的好奇心と、さつまいものおかげである。

 わたしはもたげる不安を抑え込むかのように予習に打ち込んだのだが、そのなかで印象に残ったのは『食べごしらえ おままごと』(1994年)だった。

 実はここに「からいも」の話がたくさん登場する。からいもとは、九州南部のさつまいもの呼称である。

 とくに「から藷を抱く」というエッセイは印象深い。

 「もうな、並の人生の20倍くらい、食いこんでおいたで、まだ胸やけが残っとる」なんていう南九州の農村地帯の中年男の言葉から石牟礼さんは話を始める。

 東京のスラムで60日間焼き芋を食べた人を思い出してしまう。

 対談のなかでも、石牟礼さんは、「四六時中、茹でてありますから。おなかがすけば、からいも籠というのがどの家にもあって、子どもの手の届かないところに置いておくんですけど」、子どものときに食べたくて「天秤棒でつつき落とした」とおっしゃっていた。

 なぜなら、お母様は天秤棒さえあれば、わざと届くところに置いていたからである。また、「からいもは、水俣が一番おいしかった」とも胸を張っておられた。

からいもに再会

 なぜこんなお話になったかといえば、「から藷を抱く」で、石牟礼さんが東京で「からいも」に再会する場面が描かれているからである。

 水俣の患者さんたちに付き添って、丸の内のオフィス街の路上で座り込みをしたとき、「津田塾、アテネ・フランセの才媛たち」も一緒に参加していた。彼女たちが焼き芋を買って石牟礼さんにわたす光景が沁みる。

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「道子さんにも、はい!」
突然、やきから藷に再会したのだった。彼女らはそれを「おさつ」というのであった。「お」がつく分だけ、藷は美女たちの胸で位が上がったようにみえた。それはなんとも情けない藷の味だったけれども、路上の冷えが骨にしみ透る夕刻、熱いおさつは懐炉のようでもあり、彼女らの愛らしさとやさしさが身にしみ、彼女を生み育てて下さった母君さま方にわたしは感謝した。
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 石牟礼さんは、「水俣のわが家から藷を食べさせてあげたいと思った」と記し、そのあとつぎのような定言に至る。

 「彼女たちはケーキを抱いたりはしない。から藷を抱くのである」。食べものとは食べられるだけでなく、見られたり、嗅がれたり、聞かれたり、なかなか忙しいものだが、実は、抱かれもする。そんな真実を石牟礼さんは教えてくれた。

 「から藷」から「おさつ」へのこの変身譚を、わたしは石牟礼さんにおねだりした。石牟礼さんの口からくりひろげられる「から藷」の話で、対談の場にもあの匂いとぬくもりが漂ってきた。

 これほどさつまいもに感謝したことはない。

さつまいものおかげで

 さつまいもは、肥えていない土地でも育つので救荒作物として江戸時代の日本にもたらされた。

 宮本常一は、日本史のなかで稲に比してさつまいもがあまりにもぞんざいに扱われていることを、つまり歴史家が民衆に向き合っていないことを、『甘藷の歴史』(1962年)のなかで批判しているが、そのなかにも記してあるように、享保の大飢饉や天明の大飢饉のなかで、さつまいもの栽培面積は増えていき、多くの命を救っていく。

 だが、近代以降もまた、さつまいもは、戦争中の祖父や祖母たちの空腹を満たしただけでなく、稲が育ちにくい地域や都市の底辺社会を支え、無数の人々にあの「胸焼け」をもたらしたことは宮本の本のなかではあまり触れられていないし、そもそも広く知られていないだろう。

 とともに、わざと取りやすいように「から藷籠」を低いところに置いておいた石牟礼さんのお母様と「みっちん」とのあいだに、そして、丸の内に座り込みをする女子学生と大人になった「みっちん」、すなわち石牟礼さんとのあいだに「ぬくもり」をもたらし、また、時を経て、小豆島の福田の方々、そして、石牟礼さんとわたしとのあいだにも、それを与えてくれた。

 からいも、おさつ、さつまいも――時が移っても、場所が変わっても、人は、ケーキではなく、さつまいもを抱く。いや、それだけではない。人は、さつまいもに抱かれてもきたのである。

藤原 辰史

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2017/02/01 未選択 Comment(0)

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